これまでの方法論についての拾遺備忘録

☞なぜ企画が掛け算か

本来関係ない2つのモチーフを両立させるためにどうすればいいか、が小説になるから。たとえば「少年ジャンプのバトル漫画みたいな熱いのを書こう」「量子力学の不思議をモチーフにした小説を書こう」だと、それ以上に企画が動かない、よりちゃんと言い換えると行ける方向が無尽蔵すぎる。「少年ジャンプ×家族」と2つのお手玉を成立させようと考えると、「どうすればこの二つが有機的に絡むか、有機的に絡む物語とはどんなか」「そのためにはどういった設定が必要か」「そもそもその二つが一つの物語になると、どういったことが主題や重要な幹になるか」「それを形にするために、どんな人物を配置していくべきか」という具合に、考えること、膨らますべきことが無限に出てくる。つまり、本来関係ない2つのモチーフを両立させるにはどうすれば、という「問い」が生まれ、それが小説を想像させていく。設定した無理難題が、書くべきことを連れてきてくれる。問題を解くことが、小説を書くことになる。広すぎるがゆえの停止を避けられる。制約が推進を生む。前3つの備忘録を書いていて改めて感じるのは、制約の適当さが大事という話で、自分にとっては、2項の掛け算(そのうち1項はジャンルを規定しているといい)がちょうどよく、それ以上になると制約が強すぎて苦労する。

今思い至ったけれど、いくつか書かせてもらった短中編でも同様のことをしている。いままでの短中編は、すべて「実在する曲の歌詞」が登場する。元のアイデア×その歌詞にそぐう場面を書く、という掛け算を作っているんだな、と今気づく。

 

☞書き出し

書き出しの一文はどうあるべきかについて、短文がいいかどうかなどの論点を見たことがあるけれど、私が念頭するのは「最初の一文で、いきなり渦中に放り込む」という一点だけを気にして考える。読者をいきなり渦中に落とせるなら、短文で、長文で、いずれでもいい。小説を構成する小節やシーンも同様で、「話が早く済むにはどう始めるのがいいか」としばしば考える。

 

☞登場人物の多さ

登場人物が多いのには実ははっきりした理由がある。「物語に必要な人物しか登場しない世界を不自然と感じる」から、というのがそれになる。世界というのは無数の物語が進行しており、そのひとつを切り取った物語において、そのシーンしか登場しない人物が交差することもある、という方が健全で自然だと考えている節がある。物語の外でも生きている人々がいる、そういう物語世界であってほしいと思っている。

 

☞執筆における一番の重大事

次に書くシーンや小節を「書くのが楽しくなるには」「書きたくなるには」を考えること。小説を書いていくと、ここらであの説明をしておかないと、とか、地味だけれど入れておかないといけない、というシーンや説明もしばしば発生するが、「なんとなく次のシーンを書くのをどうやら自分は億劫に感じているらしい」というのは重要なサインで、それを自覚したら、ちょっとしたことも、こんな台詞を入れよう、このキャラのこんな側面を書こう、こんな掛け合いをさせよう、次のシーンで消化すべき描写を4つくらい設定してどうすれば成立させられるか考えよう、といった具合に、「次を書きたくなるにはどうすればいいか」を考える。たとえば、マレ・サカチを書き始めるために、最初の二文で有名な二つの作品の冒頭文を模倣する、という手を思いつき、ワクワクして書き出した。ひとつは『銀河鉄道の夜』、もうひとつはまだ指摘されたのを見たことはない。そんなことでもいい。

なぜ楽しくすることが大事なのか。長編を書くという営為はしんどく辛い、という前提があるからだ。もちろんやりたくてやっていることだけれど、営為としては基本苦行に相当する。誰も正しいと保証してくれない文章を延々と書き続けるのだから。頭の中にある理想形と目の前の文章のギャップに削られ続けるのだから。思うような形に仕上がっていくかどうかわからない重圧を感じ続けながら言葉を考えていくのだから。

だから長編を最後まで書くのに一番大事なのは、そもそもの企画が「書ききって形にしたい」「これを世の中に投げ入るに値する新しいものになる」などなど価値を信じ続けられることがαでありωだけれど、加えて、書いていく過程において「次のシーンを書きたくなる」を積み重ねていくことが本質的なことであると思う。読み手に楽しんでもらう以前に、書いていて楽しいと感じられなければ、書く意味はない。そもそも必要のない営為なんだから。逆に、書き手が書いていて楽しかったということが、読み手の楽しいになるのではないか、もっと直截に言うと、書き手が書いていて楽しくなかったところを読み手が楽しいと思ってくれるだろうか、ということでもある。

そもそも自分が楽しいと感じるかどうかしか、コンパスは存在しないともいえる。と書くと簡単に見えるけれど、目の前の小節を自分が楽しいと感じているか、書きたいと感じているか、という自分の感覚を正しく感じ取れているか、こちらの方がウケそうだから、とか、こういうふうに書くものでしょ、でもなく、本当に「自分が楽しいか」というコンパスに従って書いているか、そのコンパスは正しいか。後者の方が重要に見えるが、実は、前者を徹底的に貫徹できる人が少ないのかもしれない、と考えている。

 

☞「最初の種」を変化させていく

備忘録で「最初の種」を書き留めているけれど、自分が書いていない小説でも、私は「この小説をどうして書こうと思ったか、その最初の種はなんだろう」という動機というか着想がものすごく気になる。いつか小説家に特定の作品について最初の種、そこからどう組み立てていったかだけをインタビューする雑誌を作りたいと夢想している。

そして「最初の種」、テーマやスタイルから入ったこれまでの方法論と違う方法論も挑戦したい、会得したい、というよりやってみたい、そんな意欲・危機感・予感ゆえに、今までの方法論を記し留めておく必要を感じていた。捨てるために書いた。たとえば、キャラクターから入るという方法論や、強い形式を設ける(たとえば架空の本の書評集、みたいな)という方法論とか。今書いている小説は、最初の種はタイトル(たった一語)だけから始めている。その後に掛け算も設定しているし、音楽も足掛けウン年で大量に頼っている。